著作権の存在が当方にあり、無断での転載等、知的所有権の侵害を禁止します。

老中首座は現代の総理大臣+アイドル並みの人気があった。

 『乙夜之書物(いつやのかきも)』を読んで

 加賀藩前田家からの本能寺の変の武勇伝のような戦記物の世俗ネタは、個人的には精査しないといけないと思っている。それはそれとして、『乙夜之書物』では、明智光秀は信長の宿舎「本能寺に向かわず」に鳥羽の本陣にいたというのだ。鳥羽は上鳥羽と下鳥羽があり、いずれにしても鴨川と桂川を渡り、洛中の二条新御所に午前中に駆けつけず、光秀は勝軍の将として鎌倉以降定式された信長の首実検ができないので、光秀の鳥羽にいたというのは疑問だ。 大坂には四国攻撃の織田信孝軍が陣を構えている。光秀は大石内蔵助のように現場で首実検をしなければならない。光秀は本能寺に行かず、鳥羽に控えていたというのがこの『乙夜之書物』の売物であるが、鳥羽とはおそらく下鳥羽であろう。下鳥羽で天皇の「治罰の綸旨」を待つていたのか? 下鳥羽書かず単に鳥羽と明記したか疑問も残る。

 『乙夜之書物』は、明智家家老斎藤利三の三男斎藤佐渡守(利宗)が甥(進士作作左衛門)井上清左衛門に語った内容を山鹿素行門下生関屋政春がまとめたものである。ようするに又聞きの人物から聞いた加賀前田家の兵法家関屋政春が記録した聞書きで、「本能寺の変」から87年後寛文9年(1669)に書き上げている。この『乙夜之書物』を仮に偽書として吟味すると、日本最大級の流布偽文書「椿井文書」といわれる江戸後期の偽文書作家の椿井政隆(1770〜1837))を思い出す。椿井政隆の偽作の一つに、現在文化財に指定されいる中世の「円満山少菩提寺四封彊之絵図がある。この絵図には、明応元年四月二五年(1492)に描かれた原本を南龍王順(椿井政雅号)が模写したと画中添書を入れているが、原本が存在したというのは椿井のフェイクである。椿井の偽作の凝りようは、これで終わらない。他の例をみれば、明応元年四月二五年に原本があったとする古文書まで偽造してしまうことだ。絵図には、原本の絵が描かれたのは室町時代の「明応元年四月廿五日(1492年4月25日)」と記されている。だが、この日付は存在しない。明応元年は7月19日からはじまるからだ。この年の4月25日は、前の元号である延徳4年になる。このようなヘマな粗忽なこと椿井は意識的にしているのが特徴である。

"江戸後期の椿井政隆の 信長文書の贋作" もちろ信長文書の新発見は江戸後期以降である。

 其の此共に□筋目正しく紛れこれなき候旨、近衛殿より相達せられ候につき、必ず先々旧領元のごとく返附すべく候、随って忠節肝要たるべき尤もに候、委曲木下藤吉郎・明智十兵衛より申し渡すべく候者也

 天正五年

  九月十六日 信長(朱印)

    普賢寺 

     惣侍中

これを偽文書と見破ることができたのは、天正5年(一五七七)であれば、藤吉郎(秀吉)は、羽柴筑前守であり、明智光秀は、惟任日向守と称していたからである。

 乙夜之書物というタイトルは、昔中国では、天子が政務を終えて、読書をしたところからの由来であるが、これも一癖ありそうなタイトルだ。秘蔵や門外不出も偽書の常套惹句でもある。この『乙夜之書物』には他の一次史料と齟齬が多くみられる。ニュースソースである利宗(斎藤佐渡守)は、老中首座稲葉正則の幼き頃の補佐であった。稲葉正則は斎藤利三のひ孫で、利宗の妹(春日局)の孫でもある稲葉正則に話すべきことである。

 『乙夜之書物』が偽書かどうかを見極めるには数年の研究が必要であるので、今は贋作かもしれないという憶測である。ただ『乙夜之書物』には、本史上最大の流布偽文書『椿井文書』の特徴が見られる。

 偽文書椿井『椿井文書』の特徴

(1)通例と違って関屋政春の署名(サイン)と花押(印)が重ならない(離れている)。

(2)木箱に収められている。

(3)また『乙夜之書物』下巻に「深川御蔵ノドロボウヲフセガン為ニ」の書き始め(書出)があるが、ドロボウの語源は江戸のどうらく者が転化して京・難波(現大阪中央区)では「どろぼう」といった(「嬉遊笑覧」)。初見は大阪高津(現大阪中央区)町人の生白堂行風が寛文12年(1672)に刊行した部数も少ない狂言集である。『乙夜之書物』の下巻は寛文11年に江戸本郷で書かれている。はたして江戸で「ドロウボ」は用いられていたのであろうか。偽文書作家椿井政隆は山城国相楽郡椿井村(京都府木津川) 出身であり、好事家向きの高価な狂言集も購入できる。

 ○なぜ「本能寺の変」から八七年後(一六六九)にか書かれたのであろうか? いや時代背景としたか!

 3年前の一六六六年は、斎藤利三のひ孫、春日局の嫡孫稲葉正則が(現代の総理大臣)老中首座に昇格する。世は武断から文治時代、武士道を説く兵法家山鹿素行が赤穂藩に流刑。戦記物含め文芸が盛んになり、老中首座稲葉正則のおばあちゃんは春日局で、春日局おばあちゃんのお父さんは明智光秀の家老斉藤利三で、その利三の武勇、軍記物、で聞き書きという本能寺の変を扱った『乙夜之書物』の登場である。現代でもNHK大河ドラマ「麒麟がくる」では、光秀の謀叛動機の多くの諸説をテーマに書籍が出版された。細川家の末裔から明智光秀の末裔?という方まで登場し、そのお方の書かれた「本能寺の変」がベストセラーになっている。また新総理大臣が誕生すれば新総理大臣にまつわる書籍が刊行される。時代の背景は知ることは、歴史のにフェイクを見破る基本の一つである。

 ○偽文書の目的はなんであろうか?

 日本史の一大事件の武勇伝を江戸の土産とした、江戸後期の関屋政春の末裔が、尚武の気風が強い主君前田綱紀公への兵法家関屋政春の聞書きであるとして、椿井に依頼して書かせたものかもしれない。

 関屋政春のいた当時の世は武断から文治時代、武士道を説く兵法家山鹿素行が赤穂藩に流刑。戦記物含め文芸が盛んになりし時代である。その時代を調べ、偽文書作家の椿井政隆が偽作し、兵法家関屋政春の末裔が出世の道具としたのか、『乙夜之書物』が、たとえ偽文書であって、「本能寺の変」の真説や小説が誕生し、歴史や読書の面白さを提供してくれることは歓迎である。事実の歴史の書はドラマチックでなく面白くない。しかし小説家と違い歴史研究家は事実を追求するミッションが必要だ。


「神君伊賀越えの真相」を読んで

異説が多い場合は全てを偽文書と疑ってみることが大事なようです。現代と同様、世の中に家康の苦労話がウケるとなると、みんなが創作を始めます。業務用冷蔵庫もなく、食中毒の季節、家康一行の500人分の食事はどのようにしていたか? せめて家康と年寄衆・小姓衆の食事はどのように摂ったのでのであるか。本来、臣僕にはきちんと食事をとらすことが大事で、それさえできていれば、指揮官は信頼を得て、臣僕が従う(自衛官陸将が書いた『兵站』)。家康一行は現代のハワイ旅行と違い、寝間着や式服・大小の刀・槍・持病の薬、接待先からの土産物、持参する土産など大変な荷物である。また鳥居元忠・本多正信は何処にいたか? 家康・年寄衆の病気・怪我の時の国元との連絡と国元のリスクマネジメント。現代でも総理大臣の外遊には官邸と密な連絡をしています。そんな視点から真贋に斬り込むのも大事です。私はそうしています。もちろん「小説より奇なり」で偶然の重なりもあるでしょうが・・・。 

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歴史を自由に操る歴史捜査主任の気鋭歴史家の妙な主張  

 永禄12年(1569)この年4月には、「立入宗継文書」に、京都奉行の明智十兵衛尉・木下藤吉郎・中川重政・丹羽長秀の4奉行の名が登場する。さて先の歴史を操る気鋭の歴史家は、『言継卿記』四、永禄12年6月29日・7月10日条に登場する「明智市尉」を明智光秀(明智十兵衛)というのである。6月29日・7月10日条の言継と明智市尉のやり取りと、前後して登場する6月20日・7月12日条の明智光秀とは、チぐはぐで脈絡がないので別人である。それに数日で別名で記述する事は少ない上、二度あることはない。6月20日条、言継に日乗上人が「明智から返事がない」と回答している。7月12日条、岐阜で言継が日乗上人・明智十兵衛に公事の件を依頼すると、やがて上洛すると返事している。京・岐阜にいた「明智市尉」は光秀の家臣だろう。6月29日に登場「明智市尉」は、言継と簡単に酒を飲み交わしているが、光秀・信長は下戸・若しくは下戸に近い。崩し文字で、十兵衛でも十兵衛尉でも、十兵尉と縮めても「市尉」は難しいと思う。言継は医術にも詳しく、いわばい漢方の薬剤師でもあるので、山科邸は薬局であった。また歌道は公家の既得権であり、だれでもが家庭教師で教授できるものではなかった。光秀が家臣に連歌を教授したという記述は管見では知らない。光秀の曽祖父(玄宣)が光秀に連歌を教授したというと、曽祖父(玄宣)と光秀が何歳の時であったのだろう。玄孫の光秀より、孫(光秀の父)か、自分の子(光秀の祖父)に教授するのが常識的で、そもそも教科書というべき漢籍・写本も現代と違い、希少価値で家宝に値し、連歌には漢詩や万葉集・源氏物語の素養も必要で、いかに早熟でも幼児の光秀に源氏物語の色恋がわかるのだろうか。

2020年1月17日(金))pm7時から2時間番組
『片岡愛之助の間の解明!歴史捜査2020明智光秀徹底捜査!本能寺の変の真相を追え』

 昨今、越前の長崎称念寺の伝承「越前に逃げ延びた光秀が薗阿上人の勧めで、門前で寺小屋を開き、十ケ年妻子供と暮らした」説は多くの学者に支持されている。『遊行三十一祖京畿御修行記』に、惟任方もと明智十兵衛尉といひて、濃州土岐一家牢人たりしか、越前朝倉義景頼被申「長崎称稔寺門前に十ヶ年居住故念珠にて、六寮との旧情に付て坂本暫留被申」とあるこの話も新発見として登場した。しかしこれは写本で偽文書という意見もある。一方、著名な日本の城郭考古学者も登場し、光秀の築城は防禦も特化してしている、このようなことを具体的に例をあげ 説明をしている。戦国の世で抜擢される武将は、戦場での活躍である。象牙の塔の手習師匠の暮らしが長く続けば、右筆(松永久秀は右筆出との説もある)・お伽衆に抜擢されるだろうが、過去の体験と机上プランだけでは戦えないことは、現代のビジネス社会を鑑みれば分る。また革新的な築城には、現代の建築士のように世界の多くの自然も含め造形物を又聞きの情報でなく、現場で自分の目で見た情報が卓越した一流の建築士に育てるのである。たとえば安藤忠雄氏のようにである。光秀は諸国遍歴を常とした牢人鉄炮師であったから進歩する兵器の活用場面や武器庫に精通し、それに備える築城も設計できたのである。2020年現在では、光秀が「鉄炮の武芸者」であった。この説を覆すことはできない。

またこれも有名な歴史作家は「光秀は連歌のプロ」といい、光秀の盟友であり、古今伝授の当代一のプロ細川藤孝は「光秀の連歌は上手ではなかった」という。どちらが正しいか? 光秀研究の第一人者著明な桐野氏と異なる私のいくっかの根拠があって桐野氏に賛成するが、「本能寺の変」の遺恨説支持は間違いと思う。『古事記』にもあるように、遺恨説が多いのは、「信長を弑逆は不義であるが、信長に恥をかかされてこれを討つのは武士の義」であると、時の権力者にはばかり、光秀にも義があるとして、信長に非があったとしているのである。その中でも宴会での遺恨説が多いのは宴会で信長が仕組んだ企てをサジェストしている。もちろん根拠のようなものはある。腐った魚などはウソである。料理人を束ねる「庖丁人」は、切腹もののそんなへまを100%しない。

2018年に発見された、朝倉家の傷薬「セイソ散」を光秀が知っており、籠城の際に口伝したと細川家の家老米田家に伝わる医薬書『針薬方』の奥書に、明智十兵衛が近江國高嶋郡の田中城に籠城した時の医薬の秘伝をまとめたものであるとある。法医学のルーツ漢籍『無冤録』、国内には外科用針・漢方処方『福田方』も室町時代には存在した。若狹の小浜と近江の長浜は大陸からの渡来人も多く、鍛冶が伝わった。医は仁で人々を幸福にするので、朝倉家が医学に関心が高いことも理解できる。しかし公家の家財である日記『兼見卿記』や光秀文書では、光秀が医師という新説に反して医学音痴であることが明らかである。天正三年の疵に苦しむ丹波の小畠左馬進宛に、「ちゃんとした医師に診てもらって」という光秀文書があるが、「光秀医者牢人説」の論陣を張る研究者の裏付けの一つ、光秀と好誼の名医(施薬院全宗・典薬入道丹波頼景)を左馬進に紹介していないし、その両者の弟子もである。典薬入道などは案件によっては坂本まで赴く人物でもある。光秀が会得した朝倉家秘伝の疵薬「セイソ散」も贈っていない。不思議である。昨今のどの説も客観性に欠ける。
 また光秀自身の天正四年五月重い病いの時、光秀の室の時も、また元亀三年十二月、美濃の光秀の親戚の時もである。結局、光秀の病気は、富山の薬売りの発祥の富山県能登畠山家と昵懇の曲無瀬道三が光秀の治療をする。米田家文書は個人的には吟味が必要と考える。また細川藤孝と歌道で交流のあった医師・儒学者江村專斎の談話を医師で、後に福井藩(越前)の儒官の伊藤坦庵が集めた『老人雑話抜粋』に「明智初は細川幽斎の臣なり、幽斎家老米田助右衛門などあしく当たれば、明智こらえず、信長に帰し、遂に丹波(五十万石計)を領す。明智常に云く、全く米田が陰なりと、是故に三斎(忠興)を(玉の)婿とす」との雑話が載る。二人の医者が越前朝倉家の医薬秘伝を伝授されたという光秀の『針薬方』に興味を示さないのも不思議である。現代の古文書発見者の新説のように「明智は医に長けた者である」と記述してもいいだろう。医薬書『針薬方』の真贋は数年ほど待たなければならない。

BSNHKBS(2020年正月)pm7時〜2時間番組
 「本能寺の変サミット」

後半に元総理大臣で細川家18代当主細川護熙氏も参戦し、歴史の研究家の論客が持論を主張すサミット。結局、それぞれ、専門分野のいち視点での説なので、裏付けが盤石でないため、説もアイディアの発表会のようで、潰し合いになれば、最後に司会の爆笑問題の太田光氏の総評「先を読んだ細川藤孝が操る云々・・・」に行き着く。太田光氏の通りで「本能寺の変」の中心人物は細川藤孝である。
 稲葉家から光秀が斎藤利三をスカウトし、稲葉一鉄が激怒し、信長が光秀に斎藤利三を切腹させよと迫ったというのは、まったくのウソで、長曾我部に宛てた稲葉一鉄の斎藤利三への愛情がこもった文書が存在する。ウソを嘘と聞かされた方が、視聴者にとっては、番組にときめき、ためにもなる。専門家がジャッジしてくれないのでは、歴史の真実を我々はどうやって見分ければいいのだろう。また明智光秀自筆といわれる覚書きに、「自分が思いがけない発意したのは、忠興などを取立てようとの思いからで、別条はない。五十日、百日のうちには近国を平定できるだろうから、あとは十五郎(明智光慶)・与一郎(忠興)殿ら次世代に渡して引退するつもりだ」とあるが、光慶は十三歳、与一郎は十九、二十歳である。天下を若い二人に渡せば、三河に家康、中国に毛利、越後の上杉、九州に島津と錚錚たる戦国武将、それに信長家臣秀吉や柴田などもいる。それこそ覇権を争いの戦乱の世に逆もどりである。もう少しで天下が統一されというのに、戦の世を止めるために光秀が信長を弑逆したという説に疑問を持つ。史書は真実を語らず、古文書もまた然りである、といった一面もあるが。

  現代歴史学者の第一人者は「本能寺の変」に黒幕なぞいないと「黒幕説」を否定し、明智光秀単独説を主張している。その理由として「本能寺」の信長と「妙覚寺」の信忠を同時攻撃していないことを根拠としているが、その根拠一点で一蹴されてはかなわない。

私は「本能寺の変」に細川藤孝が大きく関与していたとする。現代歴史学者の第一人者から黒幕(関与)説を否定されては困るので、その根拠を述べたい。

〇本能寺と妙覚寺を同時攻撃しないことは兵法上正し。

その理由のいくつかを述べる

〇本能寺の宿舎は、天正8年信長は村井貞勝に信長の宿所として普請させているが、妙覚寺の宿舎は、あくまで憶測だが、信長の命で、明智光秀が信長の宿所としく普請していたのかもしれない。勝手を知った要塞妙覚寺も攻め落とし易いということである。

〇伏兵も含め敵を一ヶ所に集めるには時間が必要。

このことにより戦いでの「言技」の効果が実際に「二条御所」では大きかった。

〇戦闘の装備が薄暗い未明と明るい夏の朝では異なる。敵も装備したのであるから、その装備支度に時間が必要である。

〇先ずは信長に一点集中する。

父信長を助けられず信忠が生き延びても織田家は一枚岩にならず、信忠、信雄(北畠氏へ養子)・信孝(伊勢神戸氏へ養子)の三兄弟骨肉の争いが始まる。そのように戦国武将が画策する。ゆえに信忠は前田玄以・織田長益(有楽斎)のように京を脱出せず、京都所司代村井貞勝親は戦死、信忠は自害した。

〇『信長公記』では際立って武将としての信忠を褒めちぎっているが、なぜ祖父織田信秀、父信長の通名「三郎」は、信忠でなく娘(五徳)の婿松平三郎信康に継がれたか。

〇信長に「天下布武」の印文を撰文した禅僧沢彦宗恩は、なぜ兄の信忠・信雄を差し置いて三男信孝にも「弌劒平天下」の印文を撰文したか。ちなみに信雄は「威加海内」の印文を用いた。

〇本能寺で、信長はなぜ開口一番「上之助(信忠)が別心(謀叛)か!」と放ったか。

これらを最低説明できなければ「黒幕説」を否定できない。

歴史学の権威者が軽率な断定を下しては、事実に肉薄した論文も世に出ない。過剰防衛的比喩だが、 医学界なら新し効果的病気治療を止めることになるでは。


今、「本能寺の変」にかかわる、虚構の小説でなく歴史研究書において、話題の流布する二つの明らかな間違い(ウソ)を紹介する。
  批判は興味を喚起し、注目させる話題作りでもあり、本の増刷には貢献する。不思議だが出版の世界では批判は販促でプラスになる。AIDOMAの法則である。営業妨害をするつもりはさらさらない。正しい事や事実が出づらい、認められずらい環境にならないように、明らかな間違いを指摘しているのである。当然ながら本が売れることは歓迎しまた願っている。
  昨今、あらたな歴史捜査の旗手がデビューした。「真実!」と書くのはなかなか度胸がある。「本能寺の変」の大胆な(というよりハチャメチャ)の本は従来より「売れる」ならば、大胆な(ハチャメチャ)の新説を論破する『歴史名探偵明智小五郎と小林少年』なんていうのも「売れる」かもしれない。 
 
 昨今、話題の「織田信長の嫡男・信忠が愛宕神社山で祈願する」。これはイエズス会の日本を侮った創作である。                                                               2019/08/07記

「(武田討伐から信忠が)都に着いた時、同所より3レグワ(約15q)の所に在る愛宕と称する悪魔に、勝利に対する感謝を表わすために、2、500クルサドを納めた。そして同じ悪魔に尊敬を表するため、家に帰って雪をもって体を洗った。これは一種の犠牲である。然るに、この奉仕の報いとして、その後、3日を経て、左に述ぶるが如く、体に多くの傷を受けて死し、魂は地獄において焼かれた」(1582年日本年報追加)(フロイス日本史・五畿内編V55章)
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 信忠の家は岐阜城である。宣教師フロイスは、二条(新)御所を信長の世子の邸と間違った認識の記述をしている場合もあり、また京に複数の信忠の邸宅(複数)があったとも記録する。妙覚寺に泊るな。フロイスはテーマに辻褄が合うようにそのつど表現を替えるていから、全体では辻褄が合わない。現代の歴史研究書類いの傾向である。
 1582年日本年報追加の文言が正しければ、本能寺の変の時に、信忠は岐阜にいることになる。
 また日本の夏に雪はないが、神の罰についての『旧約聖書』ヨブ記には、「夏に雪が降り」・「雪で身を洗う」の文言が見られる。但し、勝ョ親子を打ち取り、甲府から諏訪へ陣を移した新暦で4月30日は厳しい寒さであった。旧暦では大月の三月二十八日である。夏とも言えないこともなが・・・。
 「氷室(天皇家の天然冷凍庫)」から「氷」を取り出す宮廷行事の氷室節句(旧暦6月1日)があるが、行事(神事)なので、信忠の力で氷を手に入れることも出来ない。もちろん氷室を襲えば別だが。先例はない。でも襲ったことにしちゃおうか。雪だから記録は溶けてしまったなんてね(冗談)。
 浄土宗諸派は、阿弥陀如来の18番目の心願を重視するので「18」の数字を敬重する。
 聖書の神は三位一体で、「三日目に」「三日の後に」「三日目のために」「三日で」、のように「三」を象徴数としている。
そして「三」は父なる神、父と子のかかわりあいの象徴数という「へプル・ミドゥラーシュ例会のNO3」(2015、2,23)。

イエズス会は父の信長をどう創作したか見てみよう。
 アビラ・ヒロン『日本王国記』)に、「(噂によると)唇に指を当て、余(信長)は余自ら死を招いたな」と信長最後の言葉がある。「唇に指を当てる」は、公家化した武家がお歯黒を隠す仕草であるから、信長の言葉ではない。現代では、唇に一本立て指を当てるのは「内緒」「静かに」の合図であり、二本の指では、加トちゃんぺーで、先に述べたように、唇に指を当てた仕草をしたのは、室町時代の一部の公家化した武家が、お歯黒を隠す仕草である。九州大名大内義隆がそのモデルであろう。またスエズス会の立場として、自らを神とした不遜の信長に、偉大なるデウスの罰が下り、信長が最期に当たり、自分の行いを悔やみ、告白(懺悔)したというシナリオの方が、都合がよくプラス評価となるからだ。スエズス会の日本を侮った創作である。
 さて信忠が愛宕山に登ればお伴の行列になる。お忍びで行動する意味がないからである。信忠が登っていない「愛宕山」が登場するのは、明智光秀が参籠したからである。お歯黒が大内義隆なら、愛宕山の登山のモデルは光秀である。サタンは、日本人の偶像崇拝の菩薩である。ちょっと調べればウソと見抜けるものを。性癖の問題でなく、真っ当なビジネスの世界の普通の行動である。歴史学の大家の先生が信じるとウソも真実になるから困るのである。
そして真実が世に出づらくなるのも困る。現代社会は,どの斯界でも真実や事実の追求が嫌われる傾向にある。詐欺事件の被害が多いのもその影響なのであろうか。


 堺の千利休(千宗易)が、娘婿の少庵に手紙を送る。これは偽文書である。

「信忠殿が(堺へ)下向できなくなったことにつき、私たちを初め堺の南北の衆は力を落としている。茶湯も無駄になり返す返すも残念な次第である。追伸、信長は上洛されるとのこと。秀吉の状況について、聞くことができれば早々に伝えるように」

 この元は、N美術館で展示された手紙である。手紙の収録は、『茶湯の大成者千利休』1988年9月財団法人N文華財団発刊の絶版の図鑑であるが、それ以降の「本」は、この手紙が収録されていない。また千利休研究の歴史学者のこの件に触れたコメントもお目にかかれない。2015年8月22日メールでN美術館から問い合わせのご返事を頂いた。個人所有の手紙で消息が分らないという。私の結論は、この千利休の手紙は、現代人(?)が創作した偽文書である。今でも偽文書を本物と主張する歴史作家の気持ちが理解できない。

 ベストセラーの歴史学者が歴史上の陰謀にかんするの書を上梓され「本能寺の変」を総頁の半分ほど割いて解説されている。

 私は温度差の違いがあるが朝廷が「乱」「変」に関与しないことはないと思っている。マスコミの書評では、当然の行為ではあるが、中世史の大家の氏の意見を採用して、「これで「本能寺の変」黒幕説はなくなった!」と朝廷説否定の流れが作られ、「朝廷関与」説を持ち出せば途端に一蹴され、事実が表に出なくなる。そこで、とりあえず「朝廷黒幕説は説得力を失った」に反論を試みたい。

(1)氏は、勧修寺晴豊の日記『日々記』の(一五八二年六月十七日の条)「早天に斉藤蔵助(斉藤内蔵助利三)と申す者、明智の者なり、武者なる物なり。かれなど信長打ち談合の衆なり。往け捕られて京中わたり申し候」。

この文言に対して、「勧修寺晴豊は斉藤利三のことを良く知らない書きぶりである。今回の事件(本能寺の変)で初めて斉藤利三の名を知ったという印象を受ける。晴豊が(本能寺の変)計画に関与していたなら、自分の“悪事”の証拠を残しておくはずがない」として、氏は朝廷関与説を退けている。

これにはビックリした。

(1)の反論

(2)の反論

(3)の反論


NHKBS『英雄たちの選択』(2019年6月19日放送)
「新視点! 信長はなぜ本能寺に泊まったか?」の意味不明点!

(1)  番組では、信忠が「妙覚寺」を宿舎にしたので、信長は天下に敵無しの気のゆるみもあり、防御施設がない極めて不用心の「本能寺」を宿舎にせざるを得なかったとしている。理由として、「本能寺」は、町の堀などの防御施設の「惣構え」で囲まれていた外側に位置していて、「本能寺」を不用心な寺院としている。

 (1)の反論
 「本能寺の変」の二日前の五月二十九日上洛して「本能寺」に泊まった理由は、『信長記』に「本能寺の変」二年前の天正八年(一五八〇)二月二十六日、信長は本能寺を宿所とすることに決めて「御成りありて(出向いて)、御普請の様子村井春長軒(貞勝)に仰付けらる」とある。信長がマアマア適当に普請せよといわない限り、また貞勝が信長が死んで欲しいと思わない限り、貞勝は「本能寺」を堅固な要塞づくりに普請するのが常識的判断であり、普請にi半年から1年かけていることも推測できる。
 「信長はなぜ本能寺に泊まったか?」の理由の一つは、信長が二年前に「本能寺」を自分のこれからの宿所と決断したからである。番組では『信長記』のこの大事な文言に触れていない。また町の環濠(防御施設)を築いたのは、京を法華の世界としようとした法華の門徒の町衆でり、法華宗「本能寺」の檀越(檀家)衆である。「本能寺」は、日蓮宗「妙覚寺」と並ぶ武装した天文法華一揆(法華の乱)の拠点でもある。交戦では万一の場合に籠城する施設でもあったろう。
(それならばなぜ「明智軍に簡単に破れたか」、それには理由があるが省く)
 ウソも歴史学の大家が発言すると事実になるから困るのである。それは事実が表に出づらい環境を醸成するのも困る。心配なのはそれだけである。

 まだまだ「信長と信忠の上洛の理由」、「公家衆が本能寺に伺候の理由」「光秀の年齢」など反論を試みたいと思うが、現代は、歴史に限らず万事につけ、適当な「新説」がウケる。それはそれで話題になり、「銭」に繋がれば業界の経済活動の刺激になりいい事と思う。
 
真実や事実を探求するのは、こちらの個人的趣味、偏屈な性格であるが、真実や事実が表に出づらい環境が醸成されることはよくない。


 歴史捜査の「信長弑逆の動機説」を支持する方(人間)が大勢いることが不思議! 考えられない。
                                          令和元年9月23日(2019/9/23)記す
 
  ■参考史料・文献・資料

 『明智軍記』二木謙一功校注(新人物往来社)・『明智物語』関西大学中世文学研究会編(和泉書店)・『綿考輯録』土田將雄編今谷明編石田晴男編(出水叢書)・『永源師檀紀年録』今谷明監修阿波郷土会編(阿波郷土会)・『群書類従』『続群書類従』塙保己一著(続群書類従完成会)・『新群書類従』塙保己一著国書刊行会編(第一書房)・『改定史籍集録』近藤瓶城編(臨川書店)・『大日本古記録』東京大學史料編纂所編(岩波書店)・『増補続史料大成』竹内理三編(臨川書店)・『細川幽斎年譜』林達也作成(文学史研究会細川幽斎ノート)・『細川幽斎の研究』『続細川幽斎の研究』上田将雄著(笠間書院)・『細川幽斉伝』平湯晃(河出書房新社)・『連歌概説』山田孝雄著(岩波書店)・中世連歌の研究斉藤義光著(有精堂出版)・『戦国武士と文芸の研究』米原正義著(桜楓社)・『フロイス日本史』ルイス・フロイス著松田毅一訳川崎桃太訳(中央公論社)・新釈漢文大系『史記』吉田賢抗著水沢利忠著青木五郎著・『文選』中島千秋著高橋忠彦著原田種成著竹田晃著(明治書院)他・『中国古代史研究の最前線』佐藤信弥(星海社新書)・『易経』丸山松幸(徳間書店)・世界の名著『老子・荘子』小川環樹訳森三樹三郎訳『孔子・孟子』貝塚茂樹訳『墨子・孫子・荀子・韓非子』金谷治訳町田三郎訳沢田多喜男著小野四郎著(中央公論社)・日本の名著『世阿弥』(中央公論新社)・世界の歴史『フランス革命とナポレオン』桑原武夫編(中央公論社)・『日本の歴史』「南北朝の動乱」佐藤進一著「下剋上の時代」永原慶二著「戦国大名」杉山博著「天下統一」林屋辰三郎著(中央公論新社文庫)・『エッセイで楽しむ日本の歴史』上下文藝春秋編(文藝春秋文庫)・漢訳『三国志』金田純一郎著小川環樹著(岩波書店文庫)・『伝奏と呼ばれた人々―公武交渉人の七百年史』神田裕理著日本史料研究会監(ミネルヴァ書房)・『海游録―朝鮮通信使の日本紀行 』申維翰著姜在彦翻訳 (東洋文庫)・『中国死体観察学』徳田隆訳西丸興一監修(雄山閣)・『日記で読む日本中世史』元木恭雄著松薗斉編著(ミネルヴァ書房)・『日記に中世を読む』五味文彦編(吉川弘文館)・『天文法華一揆―武装する町衆』今谷明著(洋泉社)・『天文法華一揆―武装する町衆』今谷明著(平凡社)・『都市史研究』都市史学会編(山川出版社)・『足利義昭』奥野高広著(吉川弘文館)・『信長と将軍義昭』谷口克広著(中央公論新社新書)・『信長と天皇』今谷明著(講談社学術文庫)・『筒井順慶とその一族』籔景三著(新人物往来社)・『歴史の道を歩く』西日本編藤井正大著(柏書房)・『織田信長』神田千里著(ちくま新書)・『織田信長』池上裕子著(吉川弘文館)・『織田信長』桑田忠親著(角川書店)・『織田信長』鈴木良一著(岩波書店新書)・『織田信長〈天下人〉の実像』金子拓著(講談社現代新書)・『回想の織田信長』松田毅一川崎桃太編訳(中央公論新社新書)・『織田信長』土橋治重著(成美堂出版)・『織田信長読本』新人物往来社編(新人物往来社)・内乱のなかの貴族林屋辰三郎著(角川書店選書)・『信長公記』奥野高広岩沢愿彦校注(角川書店文庫)・『現代語訳信長公記』太田牛一著中川太古訳(KADOKAWA新人物文庫)・『歴史評論』二〇〇六年十二号・『公家事典』橋本政宣編(吉川弘文館)・『新訂官職要解』和田英松校訂所功校訂・『春日局のすべて』稲垣史生著(新人物往来社)・『中世武家官位の研究』木下聡著(吉川弘文館)・『水利の日本史―流域と指導者たちー』旗手勲著(農林統計協会)・『逃げる公家、媚びる公家』・『ローマ人の物語』塩野七生(新潮社)・『京都に残った公家たち』刑部芳則(吉川弘文館歴史文化ライブラリー)・『新説鉄砲伝来』宇田川武久(平凡社新書)・『新陰流軍学「訓閲集―上泉信綱伝」』赤羽根大介著赤羽根龍夫著(スキージャーナル)・『織田信忠―天下の嫡男』和田裕弘著(中央公論新社新書)・『応仁の乱』呉座勇一(中央公論新社新書)・『本能寺の変の真実』斉藤忠(実業之日本社)・『天下統一』藤田達生著(中央公論新社新書)・『明智光秀(史料で読む戦国史』藤田達生著 福島克彦著(八木書店古書出版部)・『戦国史の俗説を覆す』渡邊大門編(柏書房)・『重要文化財指定記念―信長からの手紙』熊本県立美術館(公益財団法人永青文庫)・『織田信長文書の研究』上下巻補遺奥野高弘(吉川弘文館)・『信長の戦争』藤本正行著 (講談社学術文庫)・『中国の思想』戦国策守屋洋訳著松枝茂夫監修著竹内好監修著(徳間書店)・『中国の思想家』上下巻宇野哲人米寿記念論集(勁草書房)・『古代中国の思想』戸川芳郎著(岩波書店現代文庫)・『古代中国の宇宙論』浅野裕一訳(岩波書店)・『石谷家文書将軍側近のみた戦国乱世』・『戦国のコミュニケーションー情報と通信』山田邦明著(吉川弘文館)・『戦国大名論集「織田政権の研究」』藤木久志編(吉川弘文館)・『隠徳記』上下香川正矩著米原正義校訂(マツノ書店)・『隠徳太平記』上中下香川宣阿著松田修訳下房俊一訳(教育社)・『大日本古記録』・『利休の手紙』小松茂美著(小学館)・『醒睡笑』上下安楽庵策伝宮尾與男著(講談社学術文庫)・『日本巡察記』ヴァリニャーノ著松田毅一著(東洋文庫)・『中世武士の城』齋藤慎一著(吉川弘文館)・『春秋左氏伝』上中下小倉芳彦訳(岩波書店文庫)・『流浪の戦国貴族近衛前久』谷口研吾著(中央公論新社新書)・『信長権力と朝廷』立花京子著(岩田書院)・『観応の擾乱』亀田俊和著(中央公論新社新書)・『足利義満』小川剛生著(中央公論新社新書)・『京都の神社と祭り』本多建一著(岩波書店新書))・『信長軍の司令官』谷口克広著(中央公論新社新書)・『信長と消えた家臣達』谷口克広著(中央公論新社新書)・『武田信玄』笹本正治著(中央公論新社新書新書)・『室町時代』脇田晴子著(中央公論新社新書新書)・『椿井文書』馬部隆弘著(中央公論新社新書新書)・『戦国日本と大航海時代』平川新著(中央公論新社新書新書)・『ナポレオン』杉本淑彦著(岩波書店新書)・『日本の神々』谷川建一(岩波書店新書)・『中世公家と地下官人』中原俊章著(吉川弘文館)・『概説古文書学』古代・中世編日本歴史学会編(吉川弘文館)・『武士の起源を解きあかす』桃崎有一郎著(筑摩書房新書)・『古事記』福永武彦訳(河出書房新社文庫)・『日本書記』福永武彦訳(河出書房新社文庫)・『現代語古事記』竹田恒泰著(学研パブリッシング)・『四国史料集』校訂山本大(人物往来社)・『武士はなぜ歌を詠むか』小川剛生著(角川学芸出版)・『玉造小町壮衰書』校注杤尾武(岩波書店)・『明智光秀』高柳光寿著(吉川弘文館)・『本能寺之変山崎之戦』高柳光寿著(春秋社)・有職故実『日本の古典』(角川書店)・『戦国武将25人の手紙』岡本良一著(朝日新聞社)・『戦国武将の手紙』桑田忠親著(人物往来社)・『定本名将言行録』上中下(新人物往来社)・『常山紀談』上中下湯沢常山校訂森銑三(岩波文庫)・論文『大津宮遷都の考究』上田正昭(日本風俗史学会会誌NO.117)・『日本歴史』第233・354・361・362・371各号(吉川弘文館)・『織田信長総合事典』(雄山閣)・月刊『歴史読物』特集『細川幽斎と明智光秀』『繪本織田信長記』『繪本太閤記』・『陰謀の日本中世史』呉座勇一著(KADOKAWA新書)・『戦国武将の後継者』(新人物往来社)・『金鯱叢書第6輯』『将軍家御成について』佐藤豊三著(思文閣出版)・『古典文庫『もうひとつの徳川物語』浦井正明(誠文堂新光社)・『明智光秀』桑田忠親(講談社)・『日本教会史』上下著ロドリーゲス訳井上忠生他・・『藤孝事記』編荒木尚(古典文庫)・『戦国を勝ち抜いた武将たち』童門冬二著(NHK出版)・『続群書類従』第23輯編塙保己一(続群書類従完成会)・『日本の食文化』芳賀登監石川寛子(雄山閣)・『庖丁人の生活』中沢正著(雄山閣)・『大日本史料』第11之1〜(東京大学出版会)・『日本料理法大全』石井治兵衛著(新人物往来社)・『キリシタン千利休』山田無庵著(河出書房新社)・『陰陽師』荒俣宏著(集英社新書)・『誰が信長を殺したか』桐野作人著(PHP)・『甫能寺の変 本当の謎』円堂晃著(並木書房)・『信長のおもてなし』江後廸子著(吉川弘文館)・『額田の王の謎』梅澤恵美子著(学研)・『検証・本能寺の変』谷口克広著(吉川弘文館)・『本能寺の変群像』藤田達生著(雄山閣)・『真説本能寺の変』(集英社)・徹底検証『信長殺しの真相』大浦章郎著(新人物往来社)・『織田信長合戦全録』谷口克広著(中公新書)・『織田信長石山本願寺合戦史』武田鏡村著(ベスト新書)・『明智光秀冤罪論-信長謀殺』井上慶雪著(叢文社)・『新説本能寺の変』上田滋著(集英社) ・『明智光秀のすべて』二木譲一著(新人物往来社)・『織田信長最後の茶会』小島毅著(光文社)・『本能寺の変-四二七年目の真実』明智憲三郎著(プレジデント社)・『謎解き本能寺の変』藤田達生著(講談社現代新書)・『信長殺し、光秀ではない』〉八切止夫著(講談社)『信長殺しは、秀吉か』〈桃源社〉八切止夫著・『徹底検証-本能寺の変』歴史読物編集部(新人物文庫)・ 『信長と十字架』立花京子著(集英社新書)・『戦国史−謎解き読物』小林久三著(青春文庫)・『信長は光秀に『本能寺で家康を討て!』と命じていた』跡部蛮著(双葉新書)・『本能寺の変431年目の真実』明智憲三郎著文芸社文庫』・『光秀からの遺言』明智憲三郎著(河出書房新社)tyo kawade 『明智光秀―牢人医者はなぜ謀叛したか』早島大祐著(NHK出版新書)・『バテレンの世紀』渡辺京二著(新潮社)・『なぞの研究』鈴木棠三(講談社学術文庫)・小説『天主信長…我こそ天下なり』上田秀人著(講談社)・小説4『天正十年夏ノ記』岳宏一郎著(講談社文庫)その他