『浮世絵類考』の遍歴 作成日2012年11月16日(金)

/作成者飯田(イ)

寛政 初年(1789以降)

『浮世絵類考』(大田南畝原撰) 

※写楽登場以前

2年 

◇5月風俗取締の一環として洒落本など好色本の出版の禁止 

○山東京山『傾城買48手』に「神田の八丁掘」の地名

(十返舎十九は好んで滑稽本でこの地名を用いた)

○この頃十返舎一九江戸に下る

○「寛政2年8月29日入門天満板橋町 片山写楽妻なミ

七岐讃岐(神祇伯家白川家門人帳)」
 
寛政3年 

※柳沢信鴻著『松鶴日記』七月一七日に「一・・・写楽え扇

貰ふ 奥にて逢う 此方勝手引移申付る」と記録

寛政6年

○秋頃から十返舎一九、蔦屋重三郎の食客になる。
  
 6〜7年(1794〜5)※写楽作画時期

○十篇舎一九の住む長谷川町の隣、葺屋町の土佐座で

『仮名手本忠臣蔵』12段続き幕し、大仕掛を初て興行せり

(寛天見聞記)

  7年(1795) 

◇9月好色浮世絵の一斉取締で「耕書堂」蔦谷重三郎打撃
  
  8年(1796)

◎十編舎一九作画『初登山手習方帖』に凧の絵に東洲斎写楽画 
『初登山手習方帖』の凧に描かれた絵は市川蝦蔵の「暫」というのが定説ですが、
絵解きをすれば、絵がショボクレていることや三升紋の中に門の一字があるようにも見え、
また、この絵だけが凧絵からして、写楽作品の追善絵にある、「暫」を得意としていた
寛政6年(1794)11月(10月とも)に亡くなった二代目市川門之助を描いたのではないかと
思っています。しかしながら、蝦蔵、門之助は、落款が「写楽画」で、「東洲斎写楽画」
となると、二代目市川高麗蔵の寛政6年11月、河原崎座『松貞婦女楠』になります。
また、『初登山手習方帖』の内裏雛の姿絵は東洲斎写楽画の尾上松助(高麗蔵の暫の
ウケ「公家悪」)の構図と全く同じです。但し、顔だけは暫が一九の顔、ウケが歌麿の顔
に似せ、置き換えたと思われます。正しく一九が写楽であることの証明です。

◇長喜の浮世絵「田島屋おひさ」の手の団扇に写楽画

9年(1797) 

※蔦屋重三郎没す(写楽、一九の恩人、地本問屋耕書堂主人)

※この頃から十返舎一九、十返偏・十返篇から「返」と明記

◎歌麿、錦織歌麿形新模様「煙草もつ女」三枚セット。「お半長右衛門」などの文読みで、
予が画くお半長右門は、悪癖をにせたる似づら絵にはあらず」。写楽を敵視

    12年(1800) 

『浮世絵類考』に日本橋白銀町1丁(神田八丁掘近く)の縫箔師
 笹谷邦教(新七)が『古今大和始系(浮世絵始系)』を付記

―写楽 是また哥舞妓役者の似皃を写せしか、あまりに真をか々んとて

あらぬさまに書なせしかは長く世に行われず一両年にて止ムー

◎喜多村?庭曰く『浮世絵類考』の著詐は大田南畝、斉藤月岑は、

山東京伝著とするが間違い(武江年表)。

名古屋細野要斎も大田南畝の著述としている(緒家雑談)

     享和2年(1802)

◎式亭三馬作画『又焼直鉢冠姫 稗史億説年代記』で写楽

の浮世絵師界での位置付けを表す  

『浮世絵類考追考』を山東京伝がなす。

◎『武江年表』此年間記事に「?庭云う、一九はたゞしゃらくものにて人愛敬あり」

文化 3年(1806) 

◎「斉藤写楽 号東洲称藤十郎文化3年5月17日61

 海禅寺(掃苔史料・画家の部)」

文化12年(1815

『浮世絵類考』に(加藤)曳尾庵補記す

しかしながら筆力雅趣ありて賞すへしー

文化11年頃〜 

文政元年(1818)

『諸家人名 江戸方角分』に江戸八丁堀地蔵橋に浮世絵師写楽斎と

名乗る人物(故人)が住んでいたと記す

文政元年〜

4年(1821)

『浮世絵類考』に式亭三馬記す

―三馬按写楽号東周斎江戸八丁堀に二住ス僅かニ半年余行ハルヽノミー 

※大田南畝の『奴凧』に「東江先生、八丁掘地蔵通に居るし時・・・」。

明和5年(1758)頃の書道家沢田東江の住まい。同じ頃に、万象亭

(桂川甫斎の弟)は神田八丁掘に住み(神田八丁堀にも地蔵橋)

天保 4年(1833)  

『浮世絵類考(続浮世絵類考)※『无名翁随筆』

―写楽 是また哥舞妓役者の似皃を写せしか、あまりに真をか々んとて
あらぬさまに書なせしかは長く世に行われず一両年にて止ムー 
しかしながら筆力雅趣ありて賞すへしー、

◎渓斎英泉、5代目白猿をはじめ写楽の描いた役者名9名を付記 

英泉には、文化5年(1808)の地割絵図(奉行所の絵図)を基に、

八丁堀の名所旧跡を描いた「楓川鎧之渡古跡考」図がある・・・

『燕石十種(無名翁随筆)』と異なり、俗名、職名。住所などは明記せず

天保15年(1844) 

『浮世絵類考(増補・浮世絵類考)』斉藤月岑追補 

−天明寛政年中の人 俗称斉藤十郎兵衛 居 江戸八丁堀に住す、

阿波候の能役者也 号 東洲斎

(以上、豊島町に住む鎌倉屋豊助の蔵本と借用し、そのまま書き入れたという。

豊助がどのような人物かは不明) 歌舞伎役者の似顔を写せし可あまりに

耳真越画んとて阿らぬさまに書きなせし可ば長く世に行われず

一両年にして止む 類考三馬云僅に半年余り行わるヽのミ 

五代目白猿、幸四郎(後京十郎と改む)半四郎菊之丞冨十郎廣治助五郎仲蔵

の顔を半身の画、廻りに雲母を摺りたるもの多し

◎天保14年から弘化2年(1845)にかけて、斉藤月岑が友人の石塚豊芥子の

写本を再転写した際に書き入れたのが、

「俗称斉藤十郎兵衛 居 江戸八丁堀に住す、阿波候の能役者也 号東洲斎」

年時末詳     達磨屋吾一旧蔵本書入れ

 「写楽は阿波候の士にて 続称を斉藤十郎兵衛といふよし 

栄松斎長喜老の話なり 周一作洲(周ハ一ニ洲ニ作ル)(長喜の生没不詳)

明治11年(1878) 

 春藤写楽 徳島籠屋町の人、次左衛門と称す 能役者の職を以て 藩に仕へ 

(略)江戸を能くし 俳優の似顔を描くに妙なり

 明治11518日没 (阿波名家墓所記続編)  

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